原菜摘×馬場駿吉

写真俳句集



あけましておめでとうございます。

一年の始まりからとても素晴らしいお知らせをお伝えできることを嬉しく思います。
実は、俳人として名高い馬場駿吉先生とコラボレートして写真俳句集を作ることとなりました。

私にとって文学は美術と共にとても特別な存在です。ずっと文学と美術を融合させることを夢見てきました。
そしてもう一つ、25歳から持ち続けてきた私の夢、“映画を撮る”。(ゴードンウィリスの映像美に魅せられて...)
まるで短編映画のごとく本の中で先生の鮮烈な俳句とともに繰り広げていければと思っております。

コンセプトや俳句への想いなど、後ほどブログで書いていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。

皆様にとっても素晴らしい1年となりますように。

原菜摘



俳句×写真

大変光栄なことに素晴らしい俳人である馬場駿吉先生が私の柘榴の作品をとても気に入ってくださり句を詠んでくださいました。


原菜摘写真集 CANTATA 空想とよろこびの食卓

ついに写真集が出来上がりました。
今までいろいろな画集、写真集をみてきましたが、なかなかオリジナルと同じように印刷するということは至難の業で、大好きな作家の画集など、色彩が出ていない、細部の描写が潰れているなど本というのは本当に難しいです。
けれどもその中でもこの写真集は最高な印刷の仕上がりになったと思います。
自分の作品を縮小して本にとじたという感覚です。
ここまでできたのも一枚一枚、印刷の色、陰影などを見ながら丁寧に手作りしてくださった堀内カラー、末永さんのおかげです。
私が本が好きな理由はどんな時でも手に取って見ることができる、どんな状況でもどんな環境でも身近に寄り添うことができるからです。
私が病気をしていた時、本はいつもベッドの横にありました。
持ってくださる方の心の友であることができる写真集でありますように。


写真集はA4サイズ、銀塩ペーパー、20ページのハードブックタイプになります。
ご興味のある方はギャラリーラウラまで。






原菜摘 新作写真個展に寄せて 馬場駿吉(美術評論家)


 この世に生起し、消え去るイメージを引きとどめたいという先人たちの願望は描くあるいは形造るという行為によってある部分を満足させて、美術の発展にもつながって来たのだが、一瞬の現象を細密に記録し、再現可能な<写真>の発明とその発展は近代から現代における巨大な映像文明社会を生み出してきた。今や私たちは映像の洪水の中で生活し、映像は取捨選択され、その多くは消費の対象となる一面に曝される存在にさえなっていることが実感されるこの頃となった。しかし、その中にあっても、芸術の一分野として位置付けられる<写真>作品を世に出し続ける優れた写真家は厳然として存在し続けているのを眼にする機会が決して少なくなっているわけではない。 今回、ここに写真の新作個展を提示する原菜摘は、健康上の理由もあるにせよ、学生時代から培ってきた彫刻や絵画の本格的な制作から写真家に転身してからはや4年にもなろうか―芸術全般にわたる広い視野に裏打ちされた独自の美的感覚が冴えるカメラワークには一切の余塵も残さぬ潔よさが漂う。前回の写真による個展の主役は様々な生花だったが、今回はテーブルにセットされた数々の西洋料理シリーズ。すべて自作の料理とのことだが、名シェフの手によるものともいえる美しさ。見事さ。思わず唾を吞み込むほどだ。近年、体調の不安定に悩んだ折、回復に向かうきっかけとなったのは、味覚と食欲がふと目を醒ましたことだったという。精魂こめて仕上げられた料理に癒される身体―そうした関係性を視覚化し、表現しておくことが大切だ、と菜摘は考えたのだろう。 前回の個展で撮影者に外から寄り添ったのは生花の数々だったが、今回のテーマである料理は撮影者の体内に同一化すべき美的存在として作品の中に香気を漂わせているのだ。写真家としての活動が滞りなく、ますます発展する精神と体力がこの有能な写真家の上に続きますようお祈りしています。

原菜摘評論 井上昇治(美術評論家)


原菜摘さんは名古屋市生まれ。父親の彫刻家、原裕治さん(1948〜2007年)から彫刻、絵画の手解きを受け、2009年、愛知県立芸術大の彫刻科を卒業している。
表現方法が絵画から写真に変わり、2020、2021年のギャラリーラウラでの個展では、花の写真を展示していた。
作品の変化を見ると、「絵画から写真へ」は、闇からモノクローム、そして色彩へ、という流れと軌を一にし、それはまた、精神から肉体へ、禁欲から欲望、希望へ、死から生へという変化とも重なっている。
もちろん、全てが肉体と欲望にとってかわったわけでなく、精神と身体としての感覚が調和し、闇や死、禁欲、規範にばかり囚われなくなったということである。
というのも、原さんには、闇の世界を追究し、自分の健康を害した時期がある。その後、2020年の個展では、モノクロームの花の写真が展示されたが、2021年には、それが色の世界へと変わり、過去の作品世界を一新させたのである。花の真紅の色彩は、その形態とともに力強く、生命力をみなぎらせていた。
命の艶かしさ、完璧なまでの形、色という自然の創造の素晴らしさ、見事なまでの摂理を、単なるイメージを超えた強さ、輝きとして絵画的、彫刻的な写真へと写し取ったのである。
花という自然を撮影することは、原さんにとって、自然の神秘に触れ、生命と太陽の恵みを体で感じることであり、それはまた回復への道のりと重なっていた。原さんは、花の助けによって、生命を取り戻してきたのである。
そして、驚くことに今回、写真のモチーフは、そうした花から離れ、テーブル上の料理や食材、グラスなどへとさらなる展開を遂げた。

一貫しているのは、対象を自宅で自然光によって撮影することである。
今回は、さまざまな撮影対象を卓上に構成することで、静物画的な空間をつくっていき、自然光で撮影するという流れである。
料理は、全て自ら調理するとのことである。こうして、多少の遊び心もしのばせながら、撮るべき空間が生まれる。卓上で自分の世界をつくっているわけだが、そのこと自体がクリエイションの1つの過程である。
作品には、彫刻的、絵画的な要素を意識的に残したクラシカルな作品と、さらにそこから離れ、より自由に、物語的な、詩的な雰囲気へと移った作品の、概ね2つの傾向がある。
前者は、ある種の完璧性があって、存在論的で、ドラマチックな空間に光と影が印象付けられ、後者は、軽やか、フラットで、空想的雰囲気の中に物語が生まれる気配がある。料理や食材も生き生きとして魅惑的である。
言い換えると、前者は、ある種の型として確立された印象で、見事に決まっている。後者は、そこから外れ、おしゃれでスタイリッシュである。
つまり、前者は主題、構造が明確な絵画的なもの、後者はもっと自由に遊んでいて、クールである。絵画的なものからイメージへ、韻文から散文へ、劇的なものから日常と軽やかな空想への変化である。
彫刻から絵画、絵画から写真への流れは、一直線でつながっているものの、後者のイメージは、かなり違う次元に入っている。
柔らかな光が全体を包みこむ感じがあって、その分、陰影による物の立体感が強調されず、光と影の戯れの中で、それぞれがありのままに、どこか悪戯っぽく振る舞っていて、そうしたヴィヴィッドな光景を目の当たりにしているような感覚である。
そして、食事という要素を取り入れることで、作品がより人間的なものへと向かっている。花が精神を潤すものだとすれば、食べ物、飲み物は体を満たし、その人の存在を豊かにつくっていく。
技巧に走らず、また、花、静物の選択、配置、料理そのものに作家自身が関わりながらも、より自由度が増し、空想の力と太陽の恩寵で、その美しさを導いている。
太陽の光と自然の恵み、人間の営みと、作家自身の空想、創造性が、撮影というプロセスにおいて結び合うことによって生まれた作品世界である。

OutermostNAGOYAよりhttps://www.outermosterm.com/

CANTATA 空想とよろこびの食卓

肉体と精神が重なるとき
私たちは美しい豊穣を手にする


開催日時2023年6月17日(土)−7月1日(土)
13:00-19:00 (水曜休廊)
最終日は17:00まで
場所 ギャラリー ラウラ
http://www.gallerylaura.com/



 

 原菜摘の新作写真作品展「APHRODITE」に寄せて


有り余るほどの造形才能を発揮し木彫の傑作を次々と発表していたが、壮年にして病魔に仆れた彫刻家、原裕治─そのような父から美術家としての熱血を受け嗣いだ原菜摘の中で、それがどのような新しい創造の花を咲かせることになるのかは、父上の生前の活動を身近にしてきた筆者には、大きな関心事であり続けてきた。次代への継承は、伝統的な技能の伝達を必要とする領域もあるが、現代における美術領域は広汎で、特に独創性が尊ばれる以上、素のままの自分自身との向き合いから、改めて方向性の選択が始まることになるのであって、本人にとっても悩ましいところであろう。
  原菜摘はひとまず、父に準じて愛知県立芸術大学を卒業したが、父の早世を契機にあらためて美術の全分野とその周辺領域を見直すことに没頭する。その深度と多岐性を知れば知るほど、巨大な迷宮の中に自分自身を見失う事態に陥ったと言うのだ。父を含めて膨大な先人たちの築いてきた業績に何か新たに付け加える余地があるのか、という素朴な疑念が誠実に考えれば考えるほど肥大化し、身動きもできないほどの閉塞感に押さえつけられる日々が数年も続くことになったのだと言う。だが幸いにして東洋医学によってそれが救われることになった。
  抑鬱につながる経絡を調整する治療が奏功したのだろうか。それとともに、何げなく咲く花の何げなさにひそむ意味─造化の不思議さを見とどけることの大切さに菜摘は気付くことになったという。染織の第一人者で、自然への洞察力の高さに私も畏敬の念を捧げる志村ふくみのエッセイに「語りかける花」があり、そこにも人知れず咲き人知れず散ってゆく野の花にも造化の神は手を抜くことなく、時に応じ語りかける力を持っていることを指摘しているが、菜摘も花のささやきに応じてカメラを向けることになったに違いないのだ。
  私の視野からしばらく遠ざかっていた菜摘が、<花>に特化した写真作品のポートフォリオを持って現れたのは昨年の10月頃だった。11月にギャラリーラウラで花をテーマにした写真展を開催することになったので案内状に小文をとの要請のためだった。様々な花のクローズ・アップは、時に清楚、時にあでやかな気息を感じさせられるほどのほの温かさを漂わせていた。写真家への見事な転身ぶりに驚くばかだった。今回は<花>に加えて、佳人の気配を感じさせる優美で瀟洒なグラスが卓上を飾る静物写真も加わり、透明度の高い詩的空間表現をさらに進めたように思う。原菜摘はベルリンに滞在経験があり、そのときの師からリルケの詩の一節を心にとめるように奨められたとのことだが、先ほど本稿中にも記した志村ふくみはリルケ精読の上で、それを自己の美学にどう反映させたかを一冊にまとめた著作があるほどの傾倒者。前出の「語りかける花」の中の「身近きものの気配」と題する一文には冒頭に「われらは見えるものの蜜を夢中で集めて、それを見えざるものの大きな蜜槽に備える」というリルケの言葉を掲げたものがある。菜摘の<花>の作品写真にも当てはまる言葉として最後に付け加えておきたい。

 

馬場駿吉

美術評論家/元名古屋ボストン美術館館長

 

 

 

 

 菜摘さんは、カラバッジョなどのバロック絵画に傾倒し、闇の世界を追究した時期がある。2020年の同じ画廊での個展《fleur》では、花を撮影したモノクロームの写真を見せたが、今回は一気に色の世界へと飛躍した観がある。2020年の個展の作品がドローイングに近いイメージとすれば、今回は、力強いペインティングの雰囲気である。とりわけクローズアップにした作品は活力を感じさせる。闇からモノクロームへ、さらに色彩へという流れである。しかも、真紅というべきか、その色彩は形と一体となって強い生命力を感じさせる存在感とともにある。宝石のように美しく艶やかで、生命を宿した惑星のようにその塊にエネルギーをたたえている。クローズアップの作品では、一枚一枚の花弁が精緻に写され、造化の妙というべきか、自然が見せる摂理と神秘性が闇の中から浮かび上がっているようである。花が絵画的なのか、あるいは、絵画的に捉えているのか——。菜摘さんが見事なほどの自然の造化を撮影したイメージは、逆説的に絵画的で、そして彫刻的である。カメラを使って描いている、あるいは彫刻をしているという意識が菜摘さんの中にはあるらしい。一部には、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を参照したものもある。そのドラマチックなたたずまいに触れると、これらすべてが自宅で自然光によって撮られていることに驚きも覚えた。演出ということからは遠く、1つの花の生命力、エネルギーそのものに、自然の根源的な姿を見ているのである。だから、撮影は、季節や時間、天候によって異なる自然光の移り変わりに任せるのみである。数年にわたって苦しめられ、西洋医学では原因さえ分からなかった体の不調を回復へと導いたのが東洋医学であったように、自然は、菜摘さんに欠かせないものである。菜摘さんのみならず、すべての人間にとって、人間と自然との関係の回復、全体性を取り戻すことは、なくてはならないものであろう。自然の力によって生命力を取り戻すことは、菜摘さんにとって自己治療なのである。花が自分を助けてくれると、菜摘さんは話す。それによって、菜摘さんは、感覚が研ぎ澄まされ、自然界の法則や、それと呼応する体の中のリズムを感じるようになった。いわば、自然と菜摘さんが一体化する中で、自然の法則と、それが律動するように身体に響き合うもの、そのダイナミズムとして、イメージが現れている。つまり、花が菜摘さんの形として現れている。父親の原裕治さんが遺したワイングラスや作品を撮影したモノクローム写真のシリーズ「ソネット」も初出品されている。菜摘さんによる自作の詩と重なるイメージである。     評論全文はこちら

井上昇治

美術評論家

 

 

APHRODITE展     2021. 10.2(sat) - 12(tue)  

12:00-19:00   10.6(wed)休廊   最終日は17:00まで

ギャラリーラウラ

 

大変光栄なことに私の作品"一本の麦"がカトリック東京大司教館に飾られることになりました。

この作品はアーティストとして、また一人の人間としての私の根幹をなすものです。
 一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし


I am great honored that my work "a Wheat" will be displayed at the Catholic Archdibishop's House In Tokyo.

This work is at the core of who I am as an artist and as a person.

unless a grain of wheat falls to the ground and dies, it remains by itself. But if it dies, it produces much fruit

 

今、世界は科学の急激な進歩により“神の領域”への人間のアプローチの影響もあり、人間存在の寄り処を喪失しかけている時代である。そんな日々の中、この写真家は自らの身体の不調を超える“光明”を見い出し新たなる生へ向き合い始めている。まさにそれこそが“芸術の希望”なのだ!
そして、彼女の描写する花々は時として写真性を超えその一枚一枚が自立したトルソー(彫像)の如き風情を秘めている。それはあの彫刻家ブランクーシの造形さえ思わせる流線型のフォルムの内に生の快いエロスさえ内包している。そして、静物画風のグラスを描写した作品群については「この世の宝石やガラスも光と恋に落ちて何億年経ったであろうか」そんな思いを懐かせる新たな
物語性を今後獲得してゆかんことを心より楽しみにしております!

 

津田英作 / 写真家


 

花の写真家としての復活—原菜摘に

 

 画家としてのただならぬ閃きに注目していた原菜摘からの音信が絶えて数年—

その動静が気になっていたところ、このほど被写体を花そのものに限った写真ポートフォリオを持参して、元気そうな姿を見せてくれた。

 花の様々な姿態や細部にカメラを向けることによって体調不良を克服され、今回その写真作品展を開くことになったという。

 早速その写真の花々が漏らす生々しい吐息にふれつつ、眼を蜜蜂のように作品から作品へと移動させてゆくと、ロイヤルゼリーにも似た愉楽が身の内に湧き出して来るのを感じて驚く。花のいのちと、それを写し撮る人のいのちが一体化されるカメラを手にした原菜摘。その見事な復活を祝福したい。

 

馬場駿吉

美術評論家/元名古屋ボストン美術館館長